202609/02Wed
ゆう屋の“同居介護日記1095日の歩み“
\元caregiversカフェ店長ゆう屋の同居介護日記1095日の歩み/
「遠距離介護から同居介護へ、5年目。そして、今思うこと」 ゆう屋。

2021年8月終盤だったかな。
一本の電話が知らせた、母の認知症の症状。
郵便局に印鑑を忘れ、取りに戻ったものの、今度は何をしに来たのか分からなくなる。実家に帰れば、大きなお醤油のペットボトルが5本も6本も並んでいた。
そんなこんなで、東京に暮らしていたわたしと、鳥取の実家に暮らす両親との「遠距離介護」が始まった。
母には行きつけの病院がなかったため、実家近くの内科の先生に、東京からいきなり手紙を書いた。
「母の主治医になっていただけないでしょうか」
とお願いした。
地元の地域包括支援センターを通じて介護認定を申請し、父と母には一緒に診察へ行ってもらった。快く主治医になってくれた先生に、父と母それぞれの意見書を書いていただき、認定結果は、父が要介護1、母が要支援2だった。
医者嫌いな父は、退職後、一切病院には行かず、数年前には市から「本当に生きているのか」と確認にやって来たこともあった。
父の介護度の方が上だったのは、病院に行かなかったため白内障が進行していたのか、目があまり見えなくなっていたことも大きかったように思う。
ところが、その翌月の2021年9月。今度は東京に住むわたし自身に排尿障害が起きた。
突然、おしっこがまったく出なくなるという、凄まじい体験だった。
そして、2022年3月。
93歳の父が亡くなる1週間ほど前、わたしは鳥取の実家へ戻った。
父が風呂から出られなくなり、隣人に助けてもらったと聞いて、
「父の最期が近いのではないか」
と直感した。
実際、その通りになった。
実家へ戻ったわたしは、疲れ切っていた母を別室で休ませ、父のケアをした。そして6日目、父は逝った。
その間、母はこんこんと寝続けていた。
翌4月、わたしは東京の荷物をまとめ、鳥取へ転居した。母が一人では暮らせないと判断したからだ。
東京にいる兄とも相談しながら、父の死後のさまざまな手続きや、不動産の相続手続きなどを進めた。
その頃から、疲労困憊していた母は、わたしのことを4歳年上の姉と勘違いするようになった。
「姉さん、姉さん」
ことあるごとに、わたしをそう呼んだ。
息子と認識されないことに、それほどショックは感じなかった。
2022年9月頃。
母に、運動系のデイサービスを2時間ほど試してもらった。しかし母は、そこにある運動用のマシンを「自分に売りつけられる」と思い込んでしまった。
「これではデイサービスは難しいな」
そう判断したわたしは、信頼するご意見番のNさんに話を聞いてもらった。
そして、なぜかそのやり取りの中で、
「もうサービスは一切使わず、最後まで自分一人で介護しよう。もしものことがあったら、二人でこの家で死んでもいい」
そこまでの覚悟を、自分で決めた。
不思議なことに、覚悟を決めると気持ちはスッキリした。
ところが4か月ほど経った頃、ご無沙汰していたケアマネジャーさんに、なぜかわたしの方から連絡を取ってみた。
「市内のデイサービスを3か所くらい、お母さんと一緒に見学してみたら?」
と勧められた。
あれほど覚悟を決めていたのに、わたしは素直に、
「行ってみよう」
と思った。
そして2023年3月頃から、母は温泉のあるアットホームなデイサービスへ、週1回、やがて週2回と通うようになった。
「ここなら、わたし自身も将来通いたいな」
そう思えるほど、温かなデイサービスだった。
わたし自身も、将来取り組みたい仕事の土台を作りながら、母とは地域のお祭りへ行ったり、一緒に買い物をしたりした。
穏やかな時間が流れ始めた。
家の断捨離と、心の中の断捨離
2024年4月頃から、家の断捨離を始めた。
ところが、家の中のものを片付け始めるのと同時に、わたし自身の内側でも、何かが動き始めた。
幼い5、6歳の頃に言えなかった本音。
受け止めてもらえなかった感情。
ずっと見ないようにしてきた幼少期の真実。
それらと向き合い続けるうちに、今度は怒りがとめどなく湧き上がった。
怒りというものは、こんなに激しいものなのか。
怒りは二次感情で、その陰には、受け止めてもらえなかった「かなしみ」「つらさ」「苦しさ」などがあることを知った。
気がつくと、抑えきれない感情を、母に滔々とぶつけることもあった。
すると母は、即座に反応した。
その晩や翌日のデイサービスで、日頃はしないお漏らしをすることがあった。
わたしの精神状態が、鏡のように母の心や身体へ反映されているように感じた。
介護というのは、介護する側の心の状態にも大きく左右される。
そのことを、身をもって痛感した。
2024年10月には、わたし自身に再び排尿障害が起きた。
母がデイサービスから戻ってくる前に何とかしなければならず、119番に電話するしかなかった。
「こんな状態で救急車を呼んでもいいですか?」
119番の電話口で、そう確認したうえで救急車をお願いした。
同乗してくれた30代くらいの救急隊員の、わたしを責めることのない落ち着いた対応に救われた。
「母は母、わたしはわたし」
2025年、特に夏を中心に、家の断捨離をさらに進めた。
父が作った数々の果実酒は、ウイスキーの瓶の中で腐敗していた。
それらも含め、家中にあった家具のほとんどを、憑かれたように処分した。
同時に、ご意見番のAさんからのアドバイスを受け、2階にエアコンを設置し、そこをわたしの仕事部屋にした。
母は1階中心。
わたしは2階中心。
同居していても、それぞれの空間を持つ。
さらに、それまで母と同じ部屋で寝ていたが、ベッドを移動させ、睡眠についても母との境界線を引いた。
これは、とても大きな変化だった。
2025年8月。
ケアマネジャー、デイサービス、ショートステイなどの関係者が集まり、自宅で話し合いを行った。
長くお世話になっていたデイサービスの担当者から、比較的元気な利用者さんが多いなか、すぐに短期記憶がなくなってしまう母とのやり取りに戸惑う利用者さんもおり、スタッフが一人ついていなければならないこともある、と聞いた。
「このままお世話になるわけにはいかないな」
そう思い、すぐに認知症対応型のデイサービスを探し、母と二人で見学に行った。
以前の朗らかなデイサービスとは違い、少し静かで、暗くも感じた。
しかし、スタッフの心遣いがあった。
そして、認知症対応型なら、母自身も無理をしなくて済むのではないかと感じた。
知ったかぶりをしなくて済む。
認知症を当たり前のものとして受け止めてくれるスタッフがいてくれる。
ほとんど即決だった。
現在では、比較的元気な母の「人のお手伝いが好き」「おしゃべりが好き」というところも、認知症対応型デイサービスで、うまく活かしてもらっている。
その後も、わたしのテーマは、母の認知症そのものより、自分自身の感情とどう付き合うかだった。
なぜなら、わたしの感情が安定すると、母の症状も穏やかになる。
不思議なくらい、そうなのだ。
実際はまだまだ、無意識に母へきつく接してしまうこともあり、母のお漏らしが増えることもあった。
けれど、介護者であるわたし自身が少しずつ落ち着いてくると、母も落ち着いてきた。
2024年、2025年と断捨離を続け、家の中にはずいぶん余白ができた。
玄関も新しくし、壁紙の一部は青空と雲の柄にした。
家の中にどっしりと構えていた昭和の重厚な家具の圧迫感が消え、認知症の母まで、
「なんか軽くなったね」
と言った。
これまで重量運搬船だったものが、軽やかなヨットに変わった、と言えば少しばかり言い過ぎかもしれない。
けれど、家の重量感からの解放は、わたし自身の呼吸を深くしてくれたように思える。
そして、家の余白と同時に、わたしの心にも余白が生まれてきた。
以前は、デイサービスやショートステイへ出かける前、無限に繰り返される母の質問に神経をすり減らしていた。
それにも、少しずつ対処できるようになった。
今では、
母の人生は母のもの。
わたしの人生はわたしのもの。
そう、軽やかに境界線を引けるようになってきた。
母は、かわいくて、ときどき憎たらしい「妖怪」だ
人間は90歳前後で、妖怪になるらしい。
最近、わたしはそんなふうに思っている。
同居する母は、わたしにとって、かわいくて、ときどき憎たらしい妖怪だ。
水木しげるさんの漫画に登場する妖怪みたいでもあり、家では偏見に満ちた赤ちゃんのようでもある。
そんな「かわいい妖怪」を、以前のように説得したり、言うことを聞かせようとしたりすることも、ほとんどなくなった。
母を変えることはできない。
それでいい。かわいくて、憎たらしい妖怪でいい。
変えることができるのは、わたし自身だけ。
ようやく心から、そう思えるようになった。
振り返れば、短い遠距離介護の期間を含め、もう5年目になる。
この間で一番大きかったのは、母との暮らしを通して、自分自身の感情と徹底的に向き合ったことだった。
幼い頃から満たされず、溜め込んできた感情を解き放つ時間でもあった。
車の中で一人、冷静さを保ち、安全運転をしながら、怒りを爆発させ、吠えることも何度もあった。
喉を傷めないかと、気になるくらいに。
東京で一人暮らしをしていた頃には、ここまでできなかった。
実家へ戻り、嫌でも毎日の暮らしの中で母と向き合わざるを得ない、この現実。
衝突する。
そして結局は、母の認知症ではなく、わたし自身の感情の問題と向き合わざるを得なくなった。
それが良かった。
断捨離。
そして、次々に湧き上がる、わたしの怒りや感情。
親は親。
わたしはわたし。
その境界線を、日々まずまず引けるようになった今、わたしは「母専属の家庭用ヘルパー」という役割に、結構満足している。
この夏、リハビリパンツを暑がる母を見て、デイサービスやショートステイでは仕方がないとしても、家にいるときくらいは普通の下着で過ごしてもらおうと思った。
まめにシャワーを使い、蒸れないようにする。
そんなところに気づけるようになった自分を、
「わたしもヘルパーとして、なかなか眼力がついてきたな」
と、勝手に思っている。
母専属のヘルパー業務に満足できているのは、母との間に適切な距離を保てるようになったからだと思う。
睡眠を分ける。
仕事場を分ける。
月2回のショートステイを利用する。
そして、わたし自身が取り組みたいライフワークや趣味、食事を作って味わう楽しみにも、それなりに取り組む。
自分軸を失わずに生きられるようになったからこそ、母の手助けもできる。
だからこそ、「母専属のヘルパー」と笑って言える。
曲がりなりにも、東京時代にかなりハードなヘルパーを1年間だけ経験しておいたことは、良かったと思う。
今は、そう感じている。
「りっちゃん」と暮らす
ここ1か月ほど、母の律子を、
「りっちゃん」
と呼ぶようになった。
りっちゃん、と呼ぶのが楽しい。
いや、「楽しい」というより、
どうせ名前を呼ぶなら、楽しんじゃえ!
そんな感じなのかもしれない。
「りっちゃん」と、1日に100回くらい口ずさみ、ことあるごとに呼んでいる。
さらに最近、「りっちゃんの歌」まで自然にできた。
「りっちゃんが夢を見る。
りっちゃんが空を見る。
りっちゃんが〇〇する……」
ちゃんと節つきである。
ただそれだけを繰り返す歌なのだけれど、すっかり身について、今では母を見るたびに、当たり前のように口から出てくる。
介護が教えてくれたこと
認知症との暮らしでは、目の前から「ブツ」をなくすことが意外に有効だったりする。
たとえば、「草を取らせてください」というアルバイトのチラシがテーブルの上にあると、母は何度も何度もそれを読む。
でも、チラシを片付ければ、それで終わる。
どうしても知らせたいことがあれば、コピー用紙にマジックで大きく書く。
無駄な説得をするより、環境を変える。
ひと工夫をする。
そんな小さな知恵も、日々の暮らしの中で覚えてきた。
母との時間は、あと何年あるのだろう。
それは分からない。
ただ、母の認知症との暮らしは、わたしの中で60年以上ずっと引っかかり、片付かないままだったもの、家族の問題を、少しずつクリアにしてくれた。
そして、人生にはどこか遠くに「目的地点」があるのではなく、
自分の気持ちを通わせながら、今日という一日を生きる。
そのことの大切さを、日々の暮らしの中で教えてくれた。
65年生きてきて、もしかしたら、今が一番幸せなときなのかもしれない。
これから何があろうとも、
今日、悲しいと感じられる。
今日、うれしいと感じられる。
自分の感情で、今日という日を生きられることが、うれしい。
誰のものでもない。
幼い頃からずっとあった、
家族という目には見えない格子。
家族という名の閉塞感。
そこから飛び出して、
自分軸の、わたしの人生が、
ようやく今、始まったような気がしている。
ずっと親の顔色、他者のご機嫌をうかがっていたわたしが、
同居介護をしながらも、蝉が殻を脱ぐように、
家族の殻をポイと脱ぎ捨てて、生き始めました。
わたしもこれまでずっと、家族が抱えてきた闇の中で、見えない敵と、独り相撲のように一人で戦い続けてきたんだな、とも思うのです。
終戦後も29年間、日本兵としてルバング島に潜伏し、見えない敵と黙々と戦い続けた小野田寛郎さん。
そんな小野田寛郎さんの姿に、勝手に自分自身を重ねてしまいました。
そして、日本に帰還した後、1年足らずで日本を離れ、新天地ブラジルへ渡り、牧場経営に飛び込んでいった小野田寛郎さんの姿に、
再び、わたし自身の今を重ねている今日この頃です。